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2009年01月18日
宮崎駿と内田樹とスチャダラのBOSE
今は消費するばっかりで、不幸だねえ、と言ったのは
前の会社で一個上の、私と全然違うという点で尊敬していた元上司である。
そのとき送られた記事がこれ。
――日本の将来は悲観的ということですが、60年前の悲惨な状況から経済大国にまで成長したということを考えると、そんなに悲観的になる必要はないのではないでしょうか?
宮崎 経済の恩恵を得た結果、その次のステップに「どういう風に進むか」ということだと私は思います。次のステップに進む時に、大変多くの知恵と自制心がいるのだと思います。
生産者であることと消費者であることは同時でなくてはいけないのに、私たちの社会はほとんどが消費者だけで占められてしまった。生産者も消費者の気分でいるというのが大きな問題だと思います。
それは自分たちの職場で感じます。人を楽しませるために自分たちの職業で精いっぱい力を尽くすのではなく、それもやるけれど、ほとんどの時間は他人が作ったものを消費することによって楽しもうと思って生きていますね。
それは僕のような年寄りから見ると、非常に不遜なことであるという風に、真面目に作れという風に、力を込めて作れという風に(感じ)、「すべてのものをそこ(作品)に注ぎ込め」と怒り狂っているわけです。だから全体的なモチベーションの低下がこの社会を覆っているんだと思います。
次、内田樹さんのブログにこんな記述
取材が続く。
火曜日が講談社のGrazia,水曜がリクルートの受験雑誌、木曜が朝日新聞。
取材のお題はそれぞれ「30代女性の生き方」「親は受験生をどう育てるべきか」「モンスター・ペアレンツ」
まことにさまざまである。
どのメディアに対しても基本的には同じことをお答えする。
「そういうことはあまり問題にしないほうがいいですよ」である。
これらの問いはいずれも「人間の生き方」「育児戦略」「公民としてのあり方」については「あるべきかたち」が存在し、「あるべきかたち」ではないことがさまざまな不幸を生み出しているという論理形式を前提している。
このような信憑を刷り込まれることで一部の人間は向上心を掻き立てられるが、ほとんどの人(「向上心はなくはないが、行動が伴わない」タイプの人たち)はあまり幸福にはならない。
そういう人たちの前に「成功事例」をニンジンのようにぶら下げてもあまり「いいこと」はない。
それはそのようなニンジンを見せられなければ生まれることのなかったような焦燥感や不充足感や自己卑下を植え付けるだけだからである。
でも、焦燥感や不充足感や自己卑下がもたらす「いいこと」もある。
それは「金遣いが荒くなる」ということである。
人間は商品を購入するとき(それもできるだけ無意味な蕩尽を行うときに)に一時的にだが自分の運命の支配者であるような全能感めいたものを感じるからである。
不充足感を消費行動によって全能感に切り替えるという自己詐術のうちに人々を追い込むことによって、資本主義は久しく繁昌してきた。
当たり前のことだが、今の自分のありようにそこそこ満足している人間の消費活動は、可処分所得とかかわりなく、不活発である。
だから、資本主義社会のメディアはすべて「現状に満足するな」ということだけをアナウンスしている(嘘だと思ったら手元の新聞でも雑誌でもめくってみたらよろしい。「現状に満足しましょう。日本もあなたもこれでいいじゃないですか」と書いている記事をみつけてご一報くだされば粗品を差し上げてもいいくらいである)。
そうしないとモノ(新聞や雑誌やテレビ番組もモノである)が売れないからである。
しかし、それは資本主義の側の事情であって、人間の側の事情は違う。
人間はできるだけ「ありもの」に満足しているほうが幸福である。
*
行動が伴わない人が消費で補おうとする。
結局人生の深いところにまで影響するような実りにはならず、また次の消費に手を伸ばす。
*
永作博美が雑誌で、不安がなければそんなに多くのものは必要ないと言った。
この人はちゃんと突き詰めた後だということがつくづくわかる。
*
BOSEのBLOG
※沖縄のツアーについてるDFSについて
沖縄にだらーっと休みにきたような僕には、まっっっったく興味のない海外のブランドが、
テーマパークみたいに並んでいて、その間を通って最後まで行かないと、
レンタカーに辿り着けないような仕組みになってるんですよ。
こういうのが嬉しいと思って沖縄に来る人っているのかな、
もしいたとしても、それはついそう思わされてしまっただけで、
ホントにこういうものを求めて来たわけではないと思うんですよね。
お店は、キラキラ派手に演出されてるから、一見楽しそうなんだけど、
中に入ってみると、実はなんにもなくて、そこには虚しさしかないような感じ。
*
物を欲しいと思う前に、自分がこの一生でどんなことをやれたら、いいのかな
そんなことを考えてから、いろんなものを手に入れないと
いつの間にか自分の周りにチグハグなものばっかりになっていて
きっといつか窒息しそうになるか、周りのもののために生きている人形のように
なってしまう。物も人も一緒だ。
*
丸の内でOLをやっていた母親は、周りのお姉さんたちのように
自分の娘を仕立てあげたくて仕方がなかった。
一方の私はミチコロンドンとヒスグラのTシャツで、さっぱりOL服など興味ない。
でも、私がOLルックをしたとして、私に何か良い意味があるのか、というとゼロだ。
母の不充足感を満たしたいだけだ。
母は母の人生の充実を、自分で満たさなくてはならない。
*
私はこういうことがすっかりわかってしまってから、
人に依存せず一人で生きて、死んでいくとはどういうことか考えてから
相方と出会ったので本当に良かった思っている。
*
私は彼に、どうなってほしい、とかどんな服を着て欲しい、ということは
1ミリも思わない。似合いそうだなと思う服があれば気になるだろうが
勝手に買って着せることはしない。
彼はまったくもって自分の意思があり、何を着たいか自分で決めたいからだ。
仕事もそうだ。彼は彼が人生のうちにどう時間を使うのか自分で決めるべきだ。
*
自分がどう生きたいか突き詰めたあとの人の服や、
着たいと思ってきている服が私は一番好き。そしてそれは人に対しても同じ。
*
自分が本当はどういう服が着たいか、どういう暮らしがしたいかわからなくて
見たものをそのままナゾル人が多すぎてどきどきする。
私もかつてそうだったように、普通に暮らしていたら、他人に依存せず
一人で生きるとはどういうことか、なんて考えないから当たり前だ。
誰にあるものが自分にはない、ということをとても気にしていた。
今思うとそんな考えは本当に本当に恥ずかしいことだ。
*
さて、私もそろそろ生産の度合いをもっと上げていこう。
投稿者 noritama : 2009年01月18日 18:50
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