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2009年09月28日

感動のためいき

ただただ感嘆のエントリ。
後味の良い賢いことたくさん言ってる人ってゴマンといるけれど、
この人が気合い入れて書くと、めちゃくちゃ格好いいんだよー。しびれる。

この先数年について短期的にメリットがある言葉っていっぱいあるんだけど
この人の言うことにはずっと変わらない何かがちゃんと入ってる。

なんだろう。本当に。と思って考えたら、やっぱり頭だけじゃなくて
体も含めて考えているから、武道をやっているからだと思う。

*
スケールメリットに関する内容は大学以外にも当てはまるよなあ。

AO入試が始まった- 内田樹の研究室

巨大私学のスケールメリットは裏返せば「スケール・デメリット」でもある。
それは「数を集めること」がどうしても施策上優先するということである。
経営規模がある線を越えると、「こういう教育をしたいので、学生を集める」ということから「学生を集めたいので、こういう教育をする」という方向に発想そのものが変わる。
「教育を継続するためには収支が黒字でなければならない」という考え方が放棄され、「収支が黒字になるような教育をしなければならない」という考え方が「ふつう」になる。
それは大学が「教育」の場ではなく、「ビジネス」の場に変わったということである。
学校が教育サービスの「売り手」になり、学生たちがその「買い手」になるということである。
そして、需給関係では、いまは「供給過剰」であるから、市場のルールに基づき、商品の選択権は志願者たちの側にある。
当然、大学は入りやすくなる。
受験生にとっては喜ばしい状況のように見える。
だが、それは短見というものである。
それは「商品」の売り買いにおいて、買い手の属人的なファクターは誰も気にしないからである。
商品を買ってくれれば「誰でもいい」というのが市場のこれもルールである。
志願者は「買い手」の立場で学校にかかわるときに、消費者として商品を選択する権利の代償に、「買ってくれるなら誰でもよい」という買い手における「属人性の消去」という重い事実を引き受けなければならない。
金さえ出せば、幼児でも、大人と同一の商品を買い、同一のサービスを享受することができる。
属人性を一切顧慮されないということは、しばしば社会的立場の弱い人間にある種の全能感をもたらす。
けれども、どんな場合でも先取りされた全能感はそれと等量の無能感によっていずれトレードオフされるのである。

「商品を買ってくれさえすれば買い手は誰でもいい」ということは言い換えれば、学校がその入学者に向かって、「ここにいるのは君でなくてもよかったのだ」と宣言しているということである。
そのメッセージは執拗低音のようにつきまとって、学生たちのアイデンティティの基盤を腐食させる。
学びの場を活性化するのは「私はここにいるべき人間である」という「選び」の意識である。
「私が今、ここで、この人から、このことを学ぶことは生まれたときから決定されていたのである」という妄想に近い断定によって学びは劇的に進捗する。
「私がどうしてここにいるのか」の理由を実定的に列挙できる場合には、そのような断定はもとより不要のものである。
「私がこの学校にいる理由」としてもっとも説得力があるのは、「ここしか受からなかったから」と「ここなら受かりそうだったから」である。
これに対して「そういう理由で学校を選んではいけない」と叱る親や教師はいない。
「まあ、それじゃ仕方がないよな」と頷く。
しかし、ここで「まあ、それじゃ仕方がないよな」と言わせたら「終わり」なのである。
どうしてここにいるのか、その理由が本人にもよく理解できるし、まわりの人間も理解しているような場にいる人間は、「自分が他ならぬその場にいる理由」を自力で構築する必要がなくなるからである。
非合理的な話だが、「どうしてこの学校を選んだのか、その理由がうまく言えない」ということが学びにおいてはしばしば決定的に重要なのである。

それは武道を教えているとよくわかる。
合気道に入門してくるときに、入門の理由を妙になめらかに説明する人間がいる。
あれこれの武道や身体技法を遍歴し、さまざまな武道書などを読み漁り、「やはり合気道しかないと思いまして」と言って訳知り顔で来た入門者は、経験的に言って、まず長続きしない。
入門動機をぺらぺらと言い立てたあげくに一回来ただけで止めてしまった人間を何度も見た。
それよりは、合気道って何だか知らないけれど、「友だちについてきて、つい勢いで」というような「あくび指南」的動機で入門した人の方がたいてい長続きする。
それは「どうして自分がここにいて、こんなことをしているのか、よくわからない」からである。
よくわからないから、なんとかして理由づけをしようと思う。
これは「学び」のすべてについて起きていることである。
人間はまったく無動機的に何かをするということはない。
だから、「あくび指南に通おうと思うんだけど、お前も来ない?」と誘われたときに、なんとなく「うん、いいよ」と頷いたことには、実は本人もわかっていない何らかの意味があったはずなのである。
「やだよ」という即答だって十分ありえたはずだし、その拒絶には十分な基礎づけがあったのである(なにしろ「あくび指南」なんだから)。
にもかかわらず来てしまった以上、そこには明示されていない理由、本人も「まだ知らない理由」があったのである。
どれほど自分の内側を覗き込んでも「学ぶ」ことへのつよい内発的な理由を見出すことはむずかしいときには、とりあえず「学んでみる」というのが古来の常識である。
その仕事が何を意味するのかわからないけれど、とりあえず「ご縁」があった以上はまじめにやるというのは、職業倫理の基本である。
もし、自分にその有用性と意味がわかっていることしかやらないということをルールにしていたら、ほとんどの仕事はそもそも始めることさえできないであろう。

私が申し上げたかったのは、あらかじめその有用性と意味が一覧的に開示されない限り、知性を活動させないというような横着なことを言っている人間は生涯知性と無縁である他ないということである。
「おれは意味のあることしかやらない」「自己利益が増大することが確実であることしかやらない」というようなことをうそぶいている人間はついに無為のうちに人生を終えることになるであろう。
学びを起動させるもっとも効果的な動機は、「なんだかわからないけれど、ここに来てしまった」、「ここに呼ばれたような気がした」という感じである。
固有名において学生たちに呼びかけること。その余人を以ては代え難い固有性において呼びかけること。
それは「商品を売る」という行為と隔たること遠い。

*
プロで、出し惜しみしてなくて、ここまで感動させる文章書く人を見ると、
プロの毎日やったことを細かくアップデートしてるようなブログ見るのは
無駄だなあという気持ちになる。

さ、翻訳やろ。

投稿者 noritama : 2009年09月28日 10:50

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